いまから40年ほど前、五月のイベント「大森の池まつり」に子どもたちを連れて行った。そこには、不老川水量の調整池があり、水辺の草や生き物を観察したり、ボートで遊ぶこともできた。そこは入間市宮寺にある大森地区と呼ばれている。つい最近、「大森地区」はかつて、ここを治めていた大森氏がその名前の由来だと聞いた。
運動を兼ねて、自転車でその歴史を探りに出かけた。そこは、今まで一度も行ったことのない雑木林だ。鬱蒼とした林の脇に見逃しそうな小さな案内「大森氏加藤氏宝篋印塔」があり、その先に目指す宝篋(ホウキョウ)、印塔(イントウ)がひっそり佇んでいた。江戸初期、徳川家(松平家)に仕え、大坂夏の陣の功でこの地が知行地として与えられたのが旗本大森好長。以降、大森村としてこの地区に名前が残ったのだ。

《入間市重要文化財の説明書き》
この宝篋印塔は当地を知行した旗本大森好長(よしなが)ならびにその一族加藤氏のもので、大森氏の菩提寺であった崇巖寺(現・廃寺)の境内に建てられたものである。
大森氏は徳川家康の祖父松平清康の代より徳川家に仕えた。好長の代に大坂の陣(1614〜1615)で功を認められ加増を受けた際に、知行地として当地が与えられ、菩提寺として崇巖寺を開基したものと思われる。好長はその後も加増され、1,470石となった。子孫の時長(ときなが)は、長崎奉行を拝命している。
六基の宝篋印塔は、この地の初代領主である好長夫妻とその義父にあたる旗本加藤重正の妻、好長の実子で加藤重正の養子に入った加藤重長夫妻のものである。それらとともに、好長の弟と思われる半助の碑、加藤重正の供養碑が並ぶ。
《1687年(貞亨4年)当時の入間市域の村》
入間市博物館にある江戸初期の地図。私の住む藤沢地区「藤沢村」の西隣がかつての大森村だ。












